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◆ 祥 龍 寺 史 概 略 ◆

 摂津国武庫郡都賀庄(とがのしょう)篠原村・祥龍寺は、郡内でも高みにあって、ちぬの海を見下し、大阪、堺、兵庫、須磨の一の谷まで一眸(ぼう)の中に収まる勝邑(しょうゆう)の地である。
 高燥にして水利のよいこの地に、往古から集落が営まれ、中世には都賀庄の政所が、この地形の上におかれていた事でも知られている。
 戦時中に供出した釣鐘(正徳2年・1712年鋳造)の銘によると、「広国山祥龍寺は、法道仙人(649年頃)の開基によるもので、平清盛が福原に都を移した頃、寺運盛んで広く世に栄顕(えいけん)していたが、年所を経て殿堂荒廃し、唯仙人作地蔵菩薩と掌善、掌悪の二童形を残すのみとなった。元禄9年(1696年)監院即宗の時、防長二州の主、毛利吉広公大檀越となって、頗る禅林を成す」とある。
 以後の記録で祥龍寺が古文書に現われた最初のものは、「旧天城文書」と云われる古文書の中の「都賀庄寺庵帳」であろう。「旧天城文書」とは都賀庄に於ける文明から天正年間の年貢取立て地検帳の類であるが、その中に初めて祥龍寺の名が見える。
  又、「西摂大観」に「若林家由緒書」が明らかにされているので、その中から祥龍寺関係と、一部興味深いものを掲載する。
 「保元の頃(1156年)篠原村北山に荒熊武蔵守興定城をかまえ、落城の後若林隼人尉範房茲に居城す」と云う。「恐らく祥龍廃寺後の山嶺稍々夷かな所、北山城址ならん」とあるので今の牛小屋山から伯母野の辺であろう。
 次に、「広国山祥龍寺(中略)右者往古より有来り開基年歴相知不申候寛永五年(1628年)に入院仕同二十癸未年迄住職覚玄、寛文八申年(1668年)より一夢と申す道心者堂守に差置五、六年羅在相果候以後地主文左衛門支配仕候」がある。
 承応3年(1654年)中国より隠元禅師来朝、沈滞していた日本仏教界に一大センセイションを巻き起こす。
 この時、臨済宗系より黄檗山に転ずる寺院多くこの頃、祥龍寺も萬福寺の傘下に組入れられ、黄檗山から監院として即宗和尚が管理したものであろう。この即宗和尚、及び鉄禅和尚の力で、毛利吉広公の帰依を得て再び禅林として盛えた。
 しかし、この繁栄も束の間で終り、この後、一年(ひととせ)の火災に罹(かか)りて忽ち祥龍寺は堂舎灰燼となってしまう。
 寛政10年(1798年)に出た「摂津名所図会」にはすでに「祥龍廃寺」として紹介されている。

 碧層軒五葉愚渓老師。諱(いみな)は恵忠。安政6年8月14日豊後国南海部郡八幡村字戸穴に生まる。明治40年10月、神戸祥福寺僧堂住職となる。後、大正13年5月大本山に入寺開堂をなして、妙心寺派第551世管長に就任。翌14年5月宮中豊明殿にて御陪食の栄を賜う。昭和2年六甲山麓に宝珠山祥龍寺を再興し、自ら中興開山となる。昭和19年3月奄然として遷化、寿86才。
 碧層軒老師が、偶々摩耶山下に、昔の広国山祥龍寺の遺蹟を発見、この奇縁によって計らずも、時と人を得、明治の排仏棄釈以来五十有余年にして祥龍寺再興の機運が熟したのである。
 寄進者の中に、当時の神戸市長小寺謙吉、大正年間、三井、三菱と天下を三分した、鈴木商店の鈴木よね女史、その他、兼松商店、藤井忠兵衛、米澤吉次郎等々、まさに神戸の政界・財界を網羅した感がある。碧層軒老師の人徳というべきであろう。
 現在、住職は、二世碧堂宗信、三世謙堂応峰、四世玄鑑太邦、五世悠山靖玄と続いている。

 (平成14年 記述 ・ 平成23年 更新)

昭和初年の祥龍寺

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